社長ブログ

代表インタビュー

幼少期から大学生まで

私は1984年に岩手県宮古市で伊藤家の長男として誕生しました。陸中建設は祖父の代から創業された会社で、幼少期から二代目の父より「人の役に立つことをしなさい」や「若いときの苦労は買ってでもしろ」と育ってきました。そんな教えもあってか、小学校と中学校では野球部に所属しました。高校では新たなチャレンジをという想いからボート部に所属し、インターハイや国体に出場することができました。それから大学進学の話になりますが、家業を継ぐ気はなかったものの理系科目が得意でしたので、地元の岩手大学工学部(理工学部)に進学しました。大学でも何かスポーツをと考えていた矢先、アメリカンフットボール部から強引な勧誘を受け、気がつけば入部に至っていました。ただアメフト部は大学内でも雰囲気が良く、足が速いという特性を活かす上では、自分に合った競技だったと思います。4年間レギュラーとして活躍し、最終学年時のリーグ優勝を賭けた東北大学との一戦はいまだに忘れることができません。

就活時代について

当時のことを振り返ると、将来のことなんて全く何も考えていなかったなと思います。というより、将来のことよりも今が大事だと思っていたので、考えようともしてなかったんですね。当社には毎年各地からインターン生が参加してくれますが、意識が高くて本当に感心させられます・・・本題の就活はというと、受けた会社全てから内定をいただくことができました。少し自慢のように聞こえてしまいますが、決して苦難がなかった訳ではありません。お恥ずかしい話ですが、僕はアルバイトでの昇給が誰よりも遅かったんです。当時働いていたトンカツ屋は、時給650円からスタートし、3ヶ月後を目安に670円に昇給となります。ただ私は史上最遅の6ヶ月の昇給となりました。史上最速はあっても、史上最遅では自慢になりませんよね(笑)主には部活後の出勤でしたので、閉店業務を任されていました。覚えること・やることが多く、面倒くさがり屋な私にとってはどれも煩わしいものでした。そこでひらめきがあったんです。この1つ1つの作業を何か仕組みで解決できないか。と。それからというものの、何事においても仕組みについて考えるようになり、人生で一番辛かったアメフト部での苦難やアルバイトでの経験を通じて、就職活動に活かすことができたのだと思います。それが受験企業全社に受かった原動力ですね。

就活の軸について

当時は主に、行きたい企業に就職する・やりたいことをやっている企業に就職する。この2択が多かったように思えます。正直私はどちらも思う節がなく、父親と仲が良かった宮古市でも有名な企業の経営者に相談をしました。宮古市で働きたいという想い以外何もないと伝えたところ、それで良いんじゃないか?と1時間にわたり諭すように話を聞いてくれました。それから私の就活の軸は、地元に就職しよう、地元に就職するならば宮古市で一番大きな会社に入社してやろうと野心を抱き、前職に入社することになりました。

どんな会社員生活を送ったのか

私が入社したのは、世界でも名の通った携帯メーカーをクライアントとする企業でした。主には、携帯の部品に使用される爪よりも小さなコネクタを扱い、学生時代の専攻とは全く異なる業界でした。それもあって、入社してからは苦難の連続でしたが、壁にぶち当たる度にアメフト部時代の辛かったことを思い返し、奮起する日々を過ごしておりました(笑)従業員一人一人に与えられる裁量権と責任が大きく、プレッシャーを感じておりましたが、宮古市から世界に向けた会社で働けたことを誇りに思っていました。

陸中建設に入社するキッカケ

30歳にさしかかろうとしたある日、宮古市を盛り上げるお祭りがあったんですね。私はボランティアスタッフとして、設営から運営補助に携わりました。お祭りには仮設トイレを設置したり、照明を設置したりするのですが、それを担っているのが建設業の方々だと知りました。その際に私は疑念を抱きました。自分は大学で宮古を離れたにも関わらず地元に就職したのは、地元の方々と関わり、地域を盛り上げることではなかったかなと。設営でご一緒した建設業の方々が格好良く思えたのもありますが、地域のために何かできないかという思いが込み上げてまいりました。もちろん前職の宮古から世界にものを売っているということは大変誇りに感じてはいましたが、それ以上に私の心に響く出来事でした。このことをきっかけに、私は陸中建設で働くことを決意しました。

社長に就任して

陸中建設に入社して9ヶ月後に先代である父親が体調を崩してしまい、会社に来られなくなってしまいました。当時私の役職は、専務取締役でNo2のポジションでしたので、必然的に会社を動かす身になりました。何から取り組むか悩みましたが、軸を決めて進んでいこうとしました。そこでたどりついたのが、①情報共有 ②利益率向上 ③営業強化 ④環境整備の4つの軸でした。学生時代に遡りますが、この時にも面倒くさがり屋という性格が功を奏し、前職の製造業で培ったノウハウを活かして、各課題における仕組化に取り組むことができました。

また会社をより成長させるべく、①普通のことを普通にやる ②変化し続ける ③当事者意識をもつ。という大きく3つのことを社内の行動指針に掲げました。その他、これまでの陸中建設の考えや経営方針を「陸中フィロソフィー」として会社のレガシーとして残していく活動を進めています。

これからの展望

宮古市は、人口減少の推移から経済の縮小が進んでいくと予想されております。ただそんな宮古市には、宮古市にしかない食や自然・観光地がたくさんあります。地域が存続していくためには、地域が潤っている状態になること、さらに住み続けることができる・住みたいと思える住環境の整備が必要です。そのために当社は、「地域に何ができるのか、それが全ての発想の原点である」にあるように地域に存続し、利益を上げ続け、地域に貢献し続ける必要があります。今後は宮古市につながる近隣エリアにもアプローチをし、宮古市以外のエリアからも受注できるよう商圏を広げていき、納税といった形で宮古市に貢献したいと考えております。またインターン生の提案でシェアハウス事業を立ち上げました。地元の住民と地元外から宮古市に住みたいと考える方々を巻き込み、地元以外とのネットワークを強固にし、関係人口を増加させることで地域貢献に寄与したい。そんな発想のもと新事業が生まれました。陸中建設には、変化に恐れず時代の変化に対応する力があります。そんな会社でこれからどんな新たなチャレンジができるか。そんなことを考えると自身の未来・会社の未来が楽しみで仕方ありません。

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